法務省が売買春の法改正案について、年内の臨時国会への提出を検討しているらしい。
昨年の暮れあたりから話題に出ていた気がする。
「まだやってたんか~い!」と思う。
内容についても思うところはあるけれど、長くなるので今日は触れない。
この手のニュースを見るたびに、ずいぶん昔、高校の倫理の授業で習った言葉を思い出す。
「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」
高校生の僕は「なんのこっちゃ分からんが、とにかくカッコイイな」といたく感動した。
簡単に言ってしまえば、
「あなたのマイルール(格率)が、もし世界中のすべての人に適用される法律になっても、矛盾なくみんなが守れる筋の通ったものになるように行動しなさい」
ということだ。
そして、カントはもう一つ、こんなことも言っている。
「汝の意志の格率が、汝自身の人格における人間性をも、他のすべての人の人格における人間性をも、常に同時に目的として用い、決して単なる手段としてのみ用いることのないように行為せよ」
なげ~よ。
教科書に正確になんと書いてあったかは忘れたけれど、
「人を単なる手段として、物のように扱うな」と言っている。
相手を単なる性的欲求のはけ口として使う行為は、まさに「相手を手段として消費している」状態そのものだろう。

ドイツの大哲学者カントは性欲の扱いに対して特に厳しい。
性欲のみに基づく関係については、相手の人格を無視し、その肉体を自分の快楽の手段としてしまうものだ、と考えていた。
無垢の高校生だった僕はいたく感銘を受け、青少年の溢れんばかりの性衝動はこの言葉のおかげで常に理性の完全勝利をおさめていたのであった。
聞いてないですか。そうですか。
カントの思想で大事なのは、人格を「常に『同時に』目的とせよ」としている点だと思う。
社会生活を送るうえで、お互いに役割として頼り合うこと自体を全否定したわけではない。
「いかなる状況でも人間を単なる手段として扱うな、
頼り合うときでも、『同時に』一人の人間として尊重しろよ」ということなのだ。
上司が部下に仕事を頼むときも。
客が店員に接するときも。
「お金を払っているから」「立場が上だから」といって相手を道具のように扱うのではなく、ちゃんと相手の人格を尊重する。
また、『汝自身の人格における人間性をも』とも言っている。
自分のこともただの道具にしちゃいけないぜ。
もし世の中のみんながこのルールを守れたら、売買春の問題も、
セクハラもパワハラも、カスハラも、
人間関係のいざこざのほとんどは解決するんじゃないだろうか。
僕も、自分のことも相手のことも常に同時に目的として扱うように行為したい。
新聞の記事を眺めながら、そんなことを思い出した。

職場でもらった不二家のドーナツ。
みんなで分けたら、一人1個だった。
カントリーマアム味のドーナツ。
どんな味なのか気になる。
しかし僕の意志の格率に基づくと、職場でいただいたお菓子は持ち帰って奥様(敬称)のおやつにしてもらうことになっている。
奥様(敬称)はお小遣いが無いのだ。(たぶん)
そんなわけで、カントリーマアム味のドーナツは気になるものの、僕のものにはならない。
このルールなら皆さんに適用されてもあまり困らないのではないかと思う。
何の話やねん。

難しい話で疲れたわ。実は僕も良く分かっていないのです。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。